隗より始めよ!
第一章「生命誕生と進化の真実」
5: 隗より始めよ! ~真実は足元にある
教育力の劣化
世界で最も治安の良い国と謳われた日本であるが、いつ頃であったかひと昔以上前には、少年の犯罪率が世界一という報告がなされたことがあった。真偽の程はともかく、これら凶悪犯罪を犯した少年等をを取材した報告によると、多くの少年が押し黙って何も答えようとしないのだそうだ。
それは反抗して答えないのでは無く、答えられないというのだ。言葉を変えて言えば「考える力が無い」のだという。これが本当だとすると、日本の教育の質の低下も来るとこまできてしまったのであろうか。
パスカルは「人間は最も弱い一本の葦に過ぎない。しかしそれは考える葦である」と説いた。考える力の喪失は、それは人間に非ずということと同等であって、インドの狼少女「アマーラとカマーラ」の話を思い出す。
なぜ狼に育てられたのかは不明だが、数年間、狼に育てられたようである。地元では悪魔と恐れられたそうだ。少女らは四つん這いで走り、狼と同じ生肉を喰らっていたという。
地元の神父に救助されたが、人間社会には適応できずに、年下の少女は一年後に死亡、年上の子は数年生きたが、狼としての習性は抜けず、言葉も数える程しか覚えられ無かったという。
人間の脳には臨界期があり、その時期に人間の環境が与えられずに、狼に育てられれば狼にしか成れない。狼としての情報しかインプットされないからだ。姿かたちは人間でも脳には狼の情報しか入っていない。人は人としての教育があって、人に育つと言って良い。
先の犯罪を犯した少年らは、その大切な幼児期にあっては、親とのコミュニケーションが極端に「不足」していたのであろう。
果たして幼児期の大切な時期に、人間の豊かな温もりを感じられる愛があったならば、その後の成長過程がいかようなものであったとしても、人をアヤめる事など及びもつかないのでは無いだろうか。
物のある便利な社会を追求するあまり、また行き過ぎた個人主義を追求する余りに、大切な家族との交わりや、地域社会との関わりを排し、ひたすら経済的な効率を求めてきた。
大量生産、大量消費という多くの無駄を生む使い捨て文化を築き、途上国の犠牲を省みることのない経済システムを産み、命さえも物の如く扱う医療に至っては「何をかいわんや」としか言い様がない。
人間としての基本的な心を置き去りにした、教育、地域社会、医療、経済、政治など様々な分野での、日本社会の原点回帰がどう成されていくのか大変な課題である。
「戦後」の価値観の変化が原因とするならば、そこを正さなければならない。
いま世界が変革の時を迎えていると多くの識者が発言している。どうか正しい道を・・・。白人も、有色人種も無い、民族の争いも無い真っ当な社会を目指して欲しい。
豊かな精神性を育む
- 明治維新を支えた、江戸の教育力
我々 の祖先は縄文時代から誇るべき文化を、極東の小さな島国に築いてきた。数々の外圧にあいながらも、守り抜かれたこの文化は、遂には国際化の波に翻弄され、その戦いに敗れた。
敗戦国の文化が蹂躙され、その国民が優秀であればある程、その国民を骨抜きにする政策が施されるのは、戦勝国の常套手段なのかもしれない。
一国の安全保障を他国にゆだね、繰り返される内政干渉に、外交は右往左往し、自主独立の気概もなく、国としての誇りを見失ってしまった姿を、国の行く末を案じながら、後世の日本人のために、命を捧げた戦時中の若き英霊はなんと思うであろうか。
今こそ置き去りにしてきた、古き良き世界に誇れる文化を、取り戻さねばならない。中でも家族制度の崩壊は、国の根幹を揺るがす重大事であろう。
また平安時代から、国の庶民の子どもの教育は、寺子屋思想に支えられてきた。江戸末期には数万を超える寺子屋が存在したと言われている。
この様に子供は国の宝という理念のもと、昔から家族を中心に団結し、地域社会を守り、子供を大切に育てる文化を生んできた。今その優れた文化は、街から村から失われてしまった。これこそが現在の社会不安と人身の荒廃をもたらした温床の一つであろう。
- 臨界期の情報遮断
子供が誕生すると当然母親に育てられ、人としての生きる為の様々な情報を、生活の中で与えられて育つ。しかし時として狼に育てられるような事態も起こり得る。
障害を持つことで地下に閉じ込められた女性が出産し、その女性に育てられたケースもある。この様に産まれ育てられた子供は、極端な情報不足から障害を持っていたり、社会に適応できない事がほとんどである。
また病気によって聴力、視力を失う場合もある。ヘレン・ケラーの場合がこれである。彼女は1歳10ヶ月で発症し光と音を失った。1歳10ヶ月まで健康である程度の情報が記憶されていた事が、おそらく後のヘレン・ケラーを生んだと思う。
人間は音と光によって大半の情報を取り入れ、言葉を獲得することで、知性を育み、表現力を培う。この二つの情報源を失うと、人間はどうなるのだろうか。
1歳10ヶ月であれば、十分な表現力を獲得しないまま、情報を遮断されたことになる。しかもこの時期の子供でも、自我が芽生え、人格も育っている。人間の自我は、自分の内に秘められた可能性を見い出し、それを最大限引き出して、表現する事で生きて行く事を宿命づけられている。
ところがその可能性を否定されてしまうと、残された手段で必死に生きようとするが思うように行かず、その苛立ちや恐怖を、発作的な暴力、癇癪で表現するしかなく、混乱の闇の中へ、唯深く深く沈んで行くしか無い様に思われる。
しかし彼女は残された感覚を自分なりに工夫を凝らし、研ぎ澄ましていった。だからこそアニー・サリバンという良き指導者と巡り会えた時、才能を開花出来たのかもしれない。
そして私達の社会では最近特に、日常的に臨界期にある幼児の情報遮断が行われている事を知らねばならない。
幼児を泣くにまかせたり、車に残して買い物ならまだしも、パチンコ三昧の親、テレビに子守をさせたりの子供受難のオンパレードである。
あるいは1歳から4歳までの4人の子供を残して外出し、8時間放置し火事を出して、全員死なせてしまうなど、親の責任など無きが如くである。この様な事が入学まで日常的に行われていれば、まともな知性など育つわけがなく、「人は人に育てられて人となる」という事実をもっと重く受け止めて欲しいと思う。
これは社会全体の問題でもあるが、無責任、無関心による、罪のない幼児への虐待行為と敢えて言うが、これは社会の損失でもある。
学級崩壊は教育者の質の低下という問題もあるだろうが、最大の要因は親の教育力の低下と日教組、それを放置している国家、国民の責任である。
- 臨界期の深い親の愛
この様な情報の刺激によって、脳は機能を育てて行く。極端な情報不足の家庭環境で育つと、学校教育で授業を理解出来るだけの、知性が育たず落ちこぼれ、学級崩壊、少年犯罪へと向かう事になる。
もちろん多くの家庭では、犯罪に手を染める様な所まで至らないのだが、危うい環境の中で生活しているのも、多くの家庭で見られる現実ではないだろうか。この状態からどちらに転ぶかは、ひとえに親の愛の示し方で決まるといっても良いのかも知れない。
物の豊かさを追い求め、「乳 飲み子」を他者に委ねてしまう、経済優先の子育ての在り方。そしてそうせざるを得ない社会の構造を問い直し、地域社会が中心となって、国の宝である子供らを守り育てる環境を取り戻さねばならない。
そして脳の臨界期に於ける親の深い愛こそ、何にも勝る教育であり躾であって、強く生きようとする生命力の泉であることを知らねばならない。