エピローグ「希望」2
エピローグ「希望」
3: 日本人の脳の特異性
母音文化が育む日本人の特質
聴覚障害の研究に端を発し、日本人の脳の特異性を発見した角田忠信氏は、その著書「日本人の脳」で、母音中心の言語体系を持つのは、ポリネシア諸国と日本だけに限られ、他の多くの子音文化圏との、脳の音を処理するメカニズムの違いを明らかにしている。
母音中心の日本語で育つと、日本人特有の脳が育まれるという。ポリネシア諸国では多国籍化が進み、ポリネシア語は失われつつあるので、その言語体系を維持するのは日本だけだと云う。
その特徴は母音の一語一語に意味を持たせ、それぞれが、母音で終わる言語は、自然音の全てを「言語 野」で処理することにつながり、風のそよぎ、水のせせらぎ、小鳥のさえずり、虫の音などに心を通わす、精神文化を育んでいる。
それは時に、論理の曖昧さを生み、人情を理性に優先させ、争いを好まず、「和」を尊しとする情緒的な国民性となり、他国との違いを際立たせている。
【外国人であっても、日本人脳になれる!!】 幼児期を日本で過ごし日本語に親しんでいれば その後母国に帰っても日本人脳が維持される。
角田忠信著:「日本人の脳」/大修館書店
というのである。
この事は、諸外国から、あらぬ誤解を生む、大きな要因でもあるが、世界に発信できる、誇るべき文化を育んできた。
明治以降の近代化は百五十年を経て、物質的な豊かさをもたらしてはくれたが、それ以上に失われたものの大きさを思うと誠に残念である。
忘れ去り、置き去りにされた、誇りある「精神文化」無き社会は、目標を失い、官僚主義が蔓延し社会の発展を阻み、敗戦の頸木(くびき)となった。米国の占領政策により一層、日本人の精神の荒廃が進んだかにも見えるが、東日本大震災での被災された方々の振る舞いは、戦後七十年の洗脳を以ってしても、揺るがぬ強固さを感じさせてくれた。
角田忠信氏は、「日本人の脳の特異性に目覚め、借り物ではない自分の頭で考え抜く時、初めて日本人の独創性が発揮され、その「所産」は世界の文化に貢献できることを信じたい」と、締め 括っておられる。
私達、日本人は他のどの国とも違う、独創的で優れた文化を育んできた。しかし何故に日本人の精神性と、歴史を否定する教育がいつまでも続き、それを肯定するような発言が攻撃されねばならないのか。
若者が目標を失い、日本人としての誇りを持つことを、許さない教育が行われている現実は、独立国家の姿ではない。
敗戦後、米国が残したエピゴーネンの、凋落傾向にやっと拍車がかかり、漸く独立国家としての、歩みが取れる体制が整いつつあるように思うが、今こそ市井の人々が声を上げ、国を動かす大きなうねりを作らねばならない。
それこそが真の民主主義である。真の民主国家として世界をリードできる資格を持つには「高貴な精神性」が必要となる。百年前に高貴とまで称えられた、日本人の原点を思い 起こそうではないか。未来に生きる子供たちのために、人類の為に・・・・
4: パンドラの残したもの
人間が神の許しを得ずに、天上のオリンポスの火を、地上に降ろした罪により、ゼウスは美しいが「無知と偽りの性を持つパンドラに、すべての災いと希望を入れた壷を遣わした」
神からの贈り物を受け取ってはならないと、教えられていた人間であったが、その美しさ故にパンドラを嫁にしてしまい、パンドラは好奇心から壷の蓋を開け放ってしまった。
パンドラの開けた壷から、この世にもたらされた「災い」の数々。そして慌てて閉ざされた壷の底に残されたのは「希望」であった。これは単なるギリシャの物語である。しかし神話であるからこそ、そこに真実が表現されていないだろうか。
禍と云う「闇」が「光」の世界に放たれ、「希望」と云う「光」が「闇」の中に取り残されてしまったのは、現代社会の闇の部分を考えると、鋭く真理を突いているのだと納得させられる。そして陰と陽が引き合い、反発し合うという宇宙根源の力とも符合する。
私達は「光」という物質中心の世界観しか学んでいない。しかしそれとは裏腹に、更に大きな「暗在系」という闇の世界が広がっているという事実。
光という「明在系」の物質世界は、暗在系の投影でしか無い。人類の持つ心の闇が、光の世界である現実社会に反映されるのは、必然であると言えるのかもしれない。
二十世紀が戦争の世紀であった事以上に、二十一世紀の始まりは、貧困、テロ、紛争、犯罪、汚染、病気などの闇が支配する破壊に満ちている。であればこそ希望という「光」に満たされる日も、遠くないのではとも思える。
これからは、光は闇によって一層輝くという真理。つまり非物質の見えない世界観を学ばなくてはならない。
宇宙は闇に包まれその闇の中に、地球はきらめき浮かんでいる。その闇は何も存在しない真空では無く、希望という輝きに満ちた、エネルギーの海なのである。