生存の原理【番外編】
生存の原理 番外編
歴史に残された【神の愛】
捧げる愛
自己愛・異性愛・親子愛・家族愛・隣人愛・郷土愛・祖国愛・人類愛。
様々な形の愛があるのだが、自己愛や異性愛は私利私欲、我利我欲の自己中心的な愛であり、人を救う様な高尚な想いから生み出された真実の愛では無い可能性が強い。他者の為に尽くす愛こそが、人が学ぶべき崇高な理念に基づいた愛と云えるのではないだろうか。
梶原一騎原作の「愛と誠」と言う漫画をご存じであろうか。その登場人物に武闘派の主人公とは正反対の、青白い秀才肌の青年が登場するが、彼が窮地に陥っているヒロインに対し「君の為になら死ねる」と宣言するのだが、この強い信念に裏打ちされた想いこそが真実の愛なのではなかろうか。
寺子屋教育の意義
平安時代から江戸時代末期まで続けられた「寺子屋教育」は世界に冠たる教育制度である。それは現代の教育制度とは一線を画し、人間の徳を積む為の教えを主眼とした教育であった。現代風に言えば、公の為に何を為すべきかを教える教育と云う事になる。戦国時代にザビエルが来日以降、多くの宣教師が来日している。又、江戸末期には 多くの欧米の知識人が日本を訪れ、全国を巡りつぶさに庶民の生活ぶりを観察している。その欧米人の識者がすべからく感じたのは、日本人の民度の高さである。
寺子屋制度の背景にあった哲学
五百年以上も前からの、大航海時代に始まり、欧米列強の帝国主義全盛の時代にあって、植民地支配を免れたのは、津々浦々にまで寺子屋での教育が行われ、庶民の識字率の高さが大いに影響したのではないだろうか。庶民の教育が行き届いていたことは、取りも直さず、代々続く豪商や武家や公家・天皇家にはそれ以上の帝王学があり、優れた人財を絶やす事のない教育法が確立されていたのである。だからこそ世界最古の国家として存続し続けられたのであろう。
それは、縄文時代から続く、自然信仰や祖霊崇拝を基本とした神道が背景に有って、仏教の伝来と共にその教義と神道の教えが融合した、我が国独特の哲学に発展して、それを体系化したのが聖徳太子であったと云われている。それが天皇家に受け継がれている帝王学であり、その学問を武家や公家、そのほかの名家と云われる家々に受け継がれ、独自に発展させてきたのである。その代表が世界に冠たる「武士道」と云う事になる。それは道を究める教えとして、歌舞伎や浄瑠璃‣能・茶道・華道・剣道・空手・柔道などのあらゆる古典芸能や物作りの精神文化に、受け継がれているのではないだろうか。
その様な優れた教えを、一部の権力者が秘匿するのではなく、庶民教育にまで落とし込んで、世界でも比類なき民度の高さを誇る文明国家を創り上げたのであった。
武士道によって守られた日本
縄文時代に優れた物造りの文化が醸成されていたのは、火焔型土器の文化的価値と芸術性に表れており、三内丸山遺跡の集落跡からも、非常に高度な技術を駆使した街づくりが行われていたことも解明されつつある。その後の渡来人の流入を受け流し、融合を計り国家としての体裁を創り上げて、のちの国を揺るがす、元寇にも耐えうる強い国家を生み出したのである。
しかるに、その国家存続の為に大きな犠牲を強いられてきた事も見逃してはならない。鎌倉時代の二度に亘る元寇の襲来では、鎌倉武士の奮闘で撃退したが、その武勲に報いる事ができず、幕府の衰退を招く要因となった。大航海時代に世界の有色人種が植民化されていた時代、戦国時代の末期には国内に、火縄銃が全ヨーロッパを凌ぐ量が生産されており軍事大国であった我が国も、スペインやポルトガルによる侵略によって、日本人が奴隷としてヨーロッパに連れ去られた人数は五万人とも目されている。
そんな背景があって、バテレン禁止令や鎖国に転じなければ生き残れなかったかもしれない時代を耐え抜き、二百年続く平和国家を築いたのであるが、その鎖国で産業革命の波に乗り遅れ、幕末の砲艦外交により開国を迫られた結果、国の富の流出が起こって以降の、激動の明治大正昭和へと突き進む事になる。
明治以降の戦争の犠牲者が靖国神社に祀られているが、賛否両論あって難しい問題だが、公の為に何を為すべきかという問いに答えるとすれば、元寇以来の対外戦争や鎖国せざるを得なかった事情を鑑みるにつけ、極東の平和な島国に押し寄せた、欧米の帝国主義による侵略から国家国民を護り抜くには、戦う以外の選択肢は無く、公の為に尊い命を捧げて下さった無垢の人々のおかげ様によって、戦後の時代を生きる我々は、最低限の平和を維持し、戦前から受け継いだ命を授かりその恩恵に浴している事実を、決して軽んじてはならないし、歴史に刻み込まれている当時を生きた人々の想いを汲み取る必要があるのではないか。
敗戦の頸木による国家存亡の危機
そして、戦後教育の申し子である我々は、戦後の個人主義偏重の教育によって、公徳の精神が失われてしまった結果、政官財學の中枢にいる人々の私利私欲による国家運営が罷り通り、国民の利益ではなく、既得権益を持つ企業団体外資への利益誘導を行い、国益を毀損する政策が実施されている現実が、失われた三十年の正体であり、敗戦の頸木を今尚 引きずる跛行性によるものである。
しかしながら、縄文時代から続く争いを好まず、共存共栄をモットウとしてきた国民性は、民族の遺伝子の中に刻み込まれ、日本人の魂の中に息づいているのではないだろうか。そして、戦えば比類なき強さを持っていたその特性は、偶然の結果なのではなく、数千年間に亘って連綿と続く徳を積む教育の賜物であろうと思われる。
公の場からその教育が奪われた結果、本能のままに生きる、自己中心的な愛が社会に充満する、殺伐とした社会が形成されてしまったように感じるのは私だけではあるまい。そもそもそれを「愛」とは表現しない。愛とはもっと崇高な気高き想いの発露を表現する言葉であって、軽々しく使える言葉ではないのではあるまいか。
そんな現代にあっても、公の為ならば自らの命を賭してまでも、信念を貫こうとする高潔な人々が存在する事を忘れてはならない。
思い出されるのは、かの国に赴任した外交官が不覚にもハニートラップの罠にかかり、情報の漏洩を強要され「国を売るわけには いかないので命を絶つ!」と家族に遺書を残し自決した事件があった。国を売る政治家や官僚が多く存在する中、徳が抜かれ、心に勇気を育まない戦後教育で育ったとしても、この様な恥を潔しとしない高潔な人物の存在が示すのは、幾多の困難を乗り越え、国の危機を回避し、今も尚この国が存在していると云う事実を以って、縄文以来続く日本人の魂の中に、危急存亡の時に発現する、徳の教えが焼き付いている様に思えてならない。
その証は、東日本大震災の時に様々な場所で世界が感動した日本人の振る舞いである。整然と水や食料の配給を受ける民度の高さ。原発事故の中にあっては、作業員や自衛官及び消防隊員のメルトダウンを防ぐ、いつ終わるとも知れない決死の戦い。或いは、津波に飲み込まれるその直前まで、避難を呼びかける放送を続けた女性職員。何れも涙なしでは語れない公の為に命を懸けて尽力した人々であった。
話しは百年ほど遡るが、第一次世界大戦の戦勝国で主要五ヶ国であった日本は、1919年(大正8年)パリ講和会議に於いて、国債連盟規約に「人種差別撤廃条項」を盛り込むべきと主張し、賛成多数で可決したかのように思われたが、国内の意見をまとめ切れなかった米代表のウィルソン大統領は「この様な重要案件の採決は、全会一致でなければならない」との主張を押し通し不成立となったのである。アメリカでの日系移民排斥問題が背景にあったのであるが、その後益々反日が加速する事になって、その後の大 東亜戦争の火種がくすぶり続ける事になる。
欧米列強の有色人種を支配する植民地政策の終着点であった、極東に存在する異端の国家である日本は、ペリー来航以来の悲願であった日本支配を完結する為の策略を巡らし、戦わざるを得ない状況に日本は追い込まれてしまった結果、戦わずして敗れるは民族の崩壊であり、死中に活路を開く、国家存亡の危機を脱する戦いを選択せざるを得なかったのである。
その結果 敗戦するが、世界の有色人種に勇気を齎し植民地独立の切っ掛けを作った厳然たる事実が存在する。しかし、戦勝国の歴史観を押し付けられて、世界支配を目論み侵略戦争を仕掛けたという歴史教育がなされ、残虐な戦争犯罪を犯した国と言うレッテル張りによって情報を操作され、自国に誇りを持てない根無し草の様にさ迷う精神性を植え付けられたのである。
崇高な愛によって救われた世界
仕掛けられた戦争によって、幾百万の戦死者を出したが、彼ら英霊の想いは、美しい国土とそこに暮らす愛する恋人や子供・親を異国人の凌辱から救い、まだ見ぬ子孫に誇るべき国家を残すための戦いに身を捧げたのであった。戦いに敗れる事は植民地となり、奴隷として生きるしかなかった時代である。であればこそ、愛する人々の暮らしを守る戦いであり、人間としての尊厳を守るための決死の戦いに挑めたのではないだろうか。
その様な悲壮な想いを胸に刻み込み、まだ見ぬ子孫への愛があればこその、損耗率など度外視した玉砕戦法が可能であったのだと思う。単に召集されて仕方なく戦う連合国の兵隊と、大儀の為に死地に赴いた日本兵との覚悟の差こそが、桁違いに強い軍隊の強さの秘密があったのではないかと推察する。それは愛する人びとを護り、故郷の美しい山河をのちの世に残す崇高な想いの発露であった。
この様な崇高な想いによって、偉大な功績を残された人々は神として崇められ、千年・二千年語り継がれ、人々の記憶の中に残り続ける。古くは民衆を救うために蜂起した平将門を称える「神田明神」。徳川家康を祭る「日光東照宮」。二宮金次郎の銅像で馴染みの深い、尊徳を偲ぶ「報徳二宮神社」。吉田松陰の教えによって、その後の国を支える英傑たちを輩出した偉業を称える「松陰神社」。そして「靖国神社」には、郷土を護るために国に殉じた、数百万の英霊が祭られている。
人は崇高な生き方によって神にもなれる存在であって、私達の魂の中に存在する「より良く生きる」という想いこそが、その発火点であり、公の為に尽くす生き方の根底にあるものは「隣人愛」であり、その究極は母親が子に示す「無償の愛」である。「情けは人の為ならず」という格言にも通じ、公の為に成したことは、やがて自らに帰ってくるという教えでもある。
果敢に戦った先人の勇気があったればこそ、敗戦したにも拘らず、皇統を基本とする国体の維持が叶い、その獅子奮迅の戦いに勇気を得た当時のアジアの植民地は、独立戦争を戦い抜き、国を取り戻す事ができた事実をを忘れてはならない。そしてアジアに派遣されていた兵隊の中には、帰国を拒み、アジア諸国の独立戦争にその身を投じ、地元で英雄となった日本人も多いと聞く。中野學校出身の小野田少尉の例を挙げるまでも無く、私利私欲の為ではなく、崇高な使命感が根付いていたからこそ、植民地解放という大義を貫く事ができたのである。
この様な尊徳が説いた「報徳の思想」こそが、「やおよろずの神々」が存在する我が国の強さを支える力の源泉なのではなかろうか。一神教の教えが世界を分裂させ、戦争の火種が絶えない事の原因を作っているとしたら、日本の宗教観こそ世界を救う一助に成りはしないか。対外戦争で只一度だけ負けたからと言って、唯一無二の稀有な存在であるこの国家を失わせては為らない。世界のリーダーとなりうる資質を敗戦の自虐史観の中に埋もれさせてしまう事があっては、世界は再び形を変えた、強い権力者が弱きものを支配する植民地主義がこの地球を覆う事になろう。グローバル化の背景に在るものは、形を変えた植民地支配である。
予防医療【 循環医食療法 】
宇宙は循環する事が基本となって運行されており、自然界の生物もまた同じ法則の中で、生かされている存在である事に違いは無く、自然の摂理から逸脱する事は許されない。西洋文明は特に自然を支配しようとする思想が背景に在り、その文化の上に成立してきたのであるが、その間違いにようやく気付き始めたようである。
日本の医療界が行っている生活習慣病の治療法は、時代遅れとさえも言えない、とんでもなく見当違いの療法なのであるが、世界の潮流は自然医学にシフトしており、予防を目的とした思想が根付きつつある。投薬治療の間違いに気付き、極力薬品を減らす事で薬害を防ぎ、本来あるべき理想的な食事指針を提示し、それに従った食事指導が行われるようになってきている。
翻って日本にあっては、明治の初めに日本の伝統文化をかなぐり捨て、東洋医学を禁じてまで、西洋医学や教育を取り入れてしまったが為に、未だに西洋崇拝の気運が色濃く残っている。古い伝統医学との共存ができていればと残念でならない。更に昭和20年敗戦後の情報統制によって、今尚 上級な情報が遮断され続けている事さえ知る由もない、情報弱者が庶民のみならず、国の行く末を担う立場の人々にさえ、多く存在するのである。
その為に、貴重な生命力を病気の治癒に浪費する事になり、本来人が成さねばならない使命を持って、この世に生を受けている事を考えると、病気との戦いにその労力を 費やすことは許されない。そのことで十重二十重の無駄を強いられている事に想いを馳せ、本来の使命を思い起こし、先人の想いが刻み込まれたこの大地を踏みしめ、後世の人々の為にこそ残していかねばならない責任が、今を生きる私達には託されているのではないだろうか。
自然治癒力と言う【神の力】
生命の誕生は始源地球の海の中で起こったとされる。約四十億年の時の向こうでの出来事である。当然ながら人類が関わって生命誕生がなされた訳もなく、これこそ「神の業」と言う外はない。人類の寿命からすれば、途方もない数億年単位の進化のプロセスがあって、人類の誕生に至ったのは、決して偶然などではなく必然であった。
四十億年の茫々たる時の経過の後、登場してきた人類の肉体は、精巧で緻密に練り上げられた完璧な生命体と云えるのではないだろうか。現代の高度に発達した科学技術でさえ、未だにその全貌は把握する事が出来ていないのも当然である。肉体は完璧であるが、精神は未完成の状態でありはしないか。それは意図して未完成のまま、肉体と一対を為し、完璧な身体と釣り合うように、向上する事を求められるよう設計されている様に思えてならない。
超免疫という【真の健康体】
人は恒常性維持機能と云う優れた免役機能を備えている。例えば、超免疫体を獲得してしまえば、何事も憂いの無い心身の状態を維持し、溌溂とした人生を送る事が出来るようになる。水源池で湧水が湧き出る様子を想像してみるとよい。何の穢れも濁りもない清らかな清水の如き「清々しい」までの心身こそが、超免疫を獲得した「真の健康体」の意味するところだ。
超免疫を獲得した上で、更なる次のステージである「完全体」を獲得した状態を100とすれば、人間の持つ免疫力は「正しい 主食」の選択をするだけで、85%の自然治癒力と言う免疫力を獲得できる仕組みを備えている。85%の免疫というのは、風邪さえもひかない、病気もしない、しかし時折 体調不良が襲って来るような心身の状態である。
この時折 不調が起こる程度の「免疫力85%」の健康度合いは、健康体としての最低限の限度域であり、これを下回ればやがて何らかの病変が体を襲ってくるようになる。それは完璧な主食の持つ「神秘な力」によるものであり、肉体に備えられた「神の力」による自然治癒力との合わせ技によって可能となる。いかに肉体側が完璧な免疫力を備えていようとも、食の間違いは その免疫力を削り取るように仕組まれていると言わざるを得ない。そこに意識改革を促す、神の意図を感じてしまう。
その上で、添加物などの化学物質の多い加工食品を排除すれば、ほぼ完璧な健康体を獲得でき、その状態で90%の免疫力が獲得できている状態と言える。この状態を維持できる向上心や意欲を持ち続ける為には、それを実行して快適な健康状態を実体験したという経験則が必要になる。そこに至るまでには、紆余曲折を経て、何度も憂いの無い快適な健康を体験しながらも、誘惑に負けてまた邪食にふける。その結果、苦しい体調不良を繰り返しながら、食の大切さが心身に刻み込まれて、気付きを得るのである。
その体験を経なければ、恐らく食が大切だという意識改革は不可能なのかもしれない。不快な状況というのは、人を腐らせて、心身の耗弱を招き寄せるからだ。そして常識的な食生活をする限り、やがて心身を病み、十年寝たきりの介護生活が待つ老後を送る破目になる。それは 常識の中に嘘が散りばめられ、人々をミスリードする力の存在があるからに他ならない。結果、人々は 商業主義に毒された、企業理念の欠落した大小の食品会社が生みだす、数々の添加物に汚染された加工食品による化学物質の複合汚染によって、消費者は無限の苦しみを味わう事になる。
その苦しさは、間違った食によって引き起こされているという体験を通じてしか、身に染みて感じ取ることができないのが人間の持つ、哀しくも易きに流れようとする特質なのであろうか。邪食が不調を生み病氣の原因である事を体で理解する事は、あなたを次のステージに押し上げてくれる最大の武器となる事を断言しておきたい。
美味しいものや甘い物の誘惑に負けたり、付き合いで仕方なく不健全な食事を摂取したとしても、それを不用意にも繰り返さない限り、自然治癒力が勝り問題が生じる事は皆無である。この正しい食が習慣化すれば、もう元の不健康な状態に戻る事ができなくなる。この様な確信を持つことで、次の段階にステップアップする事が出来るだろう。
自然治癒力をパワーアップする方法とは
それは 超免疫体の獲得である。それには 95%以上の免疫活性が必要となる。正しい主食とは、それだけで完全なバランスを持った栄養素を含み、更に添加物を排除する事で「真の健康体」を獲得できるであろう。そして、副食に伝統的和食の発酵食品や 海藻、小型の魚介類などを摂取する事で、更に三%の上積みが出来て、医者に頼る事の無い健康管理が可能となる。
勿論、添加物まみれの加工食品などの摂取は論外であるが、その様な汚染食に手を出す気さえ起らないであろう。これが実現できれば、一切の憂いなどの無い、望み通りの真の健康体を享受でき、本来傾注すべき人生の大目標に向かって邁進する事も可能となる。これが98%の免疫が活性した超免疫体である。後の2%は、おそらく 神の領域になるであろう。
「神様はいない」 という主張をする人もいるが、神というのは 宇宙の神羅万象を取り仕切っている存在である。 その為、個々の願い事など聞いてる暇はない。 だからこそ、我々の心に神の存在を備えてくださっている。良心や人様の御役に立ちたいという想いがそれに当たるのでは無いだろうか。人々は仏陀やキリストに神を観る。彼らは超人的ではあるけれど人である事に変わりはない。
数千年に一度現れるような偉人は、何億 人もの人に影響を与え、人を救い 社会を救うような働きを成し遂げるためにこの世に生を受ける。我らも又、彼らほどの事は成し得なくとも、家族や友人を救い、人助けの真似事ができるのではないだろうか。
世の中のすべてのものに意識があると言われている。 鉱物を含めて植物・動物、そして言わずと知れた我々人間にである。 我々の持つ意識の奥底に眠るその本質こそ、神そのものでは無いだろうか。魂を磨き 神の存在に近づく 努力をすれば、超免疫体を超える、異次元の超免疫、即ち「完全体」と言う真の健康を獲得する事も不可能ではない。
弱きものを闇に落とす卑劣な罠
しかし、人を救うために存在すると思い込まされている、製薬会社の薬品によって人体は汚染され、その毒物の害で新たな病気を生みだし、それを良かれと信じ込み、医者通いを続ける人々がいかに多い事か。これは、金を生みだす無尽蔵の装置をシステム化したようなもので、アヘン窟に代表される不法な麻薬を使った集金システムが、医者が処方する薬品よって、合法的に税金を資金源として生み出されてしまっていると言っても過言ではない。
更に、これと同じことが食品業界にも存在している事実を見逃してはならない。食とは生命の質を決定する、最も重要な要素であるにも拘らず、軽視され、テレビで垂れ流される食レポートでは「甘ぁ~い」「柔か~い」を強調する感情的な表現のオンパレードである。そのどこに食の本来の目的である「生命」を育むための哲学が存在するのであろうか。商業主義に毒され、マスメディアの本来の理念を失った報道に辟易するのは私ばかりではない。若者のテレビ離れが顕著なのは、その象徴であるかのように感じるのは 穿ち過ぎであろうか。
この様な薬物と汚染食によって大病を患うことを知る者は限られている。或いは知ってはいても邪食する誘惑に負ける事で体を壊すのである。その様な毒物とあえて言うが、間違いだらけの食を摂取しても、即座に健康に影響しない仕組みによって守られているが為に、気づく頃には肉体は疲弊し、手遅れの状態となっているのが実情である。そこに生かさず殺さずの集金システムが完成するのである。我ら消費者が賢くあらねばならない理由がそこにある。こんな悪どい事がまかり通る世の中を許してはならない。
そして一度発症してしまい臓器に損傷を負うと、その治療は一筋縄ではいかない。特に脳に損傷を受けると半身麻痺が引き起こされ、その回復は困難を極める事になる。そうならないための方策は唯一、食の改善一択でしかない。そもそも、自然界の法則に則って人類は誕生したものである。そして完璧な肉体が与えられているにも関わらず、自然の摂理に逆らう生き方の選択で、肉体は病むのである。
正しい食の選択とは、不自然な食の排除であり、自然が用意してくれている完全栄養素を備えた食の摂取に他ならない。決して老化する事で病気が生みだされる訳では無い事を断言して起きたい。病気を生みだすのは、成長する事を諦めた怠惰な意識であり、因果律を無視した行動に起因する。
かつて吉田松陰は「かくすれば かくなるものと 知りながら 已むに已まれぬ 大和魂」と謳っている。これは、この行動を取れば死罪に当たる行為だが、日本の未来の為には避けて通れない行いである。という意味である。
私は皆様に問いたい。「かくすれば かくなるものと 知らずして 病むに已まれぬ 大和魂」。これは、食の間違いを放置すれば、人が病むことを止められず、人のみならず、国の根幹をも揺るがしかねない重大事である、との意味を込めている。「人は石垣、人は城」の故事にも通じる想いと言ってよい。この国は特に人が財産であり、人財無くして国の繁栄は無く、今庶民の覚醒が求められている重大な局面である事を訴えておきたい。それは我利我欲に支配されている国のトップの猛省を促す草の根の運動でもある。
自然の摂理という【生存の原理】
現代社会は非常に複雑にできている。しかしこの宇宙を創り上げている真理というものは 単純明快である。神の力と言うと怪しげな教えを想起するかもしれない。しかし、宗教が発達する太古の昔から人類は神なる存在を崇めてきたのである。人には自然や 自然の力に対する畏怖心があり、それが信仰心という心の働きになっている。 宗教といのはその働きを利用して権力を得ようとする一部の権力者の愚かな行為であるが、そもそも人類は、お互いが協力しながら コミュニティを運営し存続を図ってきた。
はっきり申し上げるけれども、例えば人の能力を計る指数にIQテストがあるが、普通人は IQ100前後であると言われている。天才は180~200を示す様である。だからと言ってこれが人間の価値を示す全てではないが、IQが高ければ、現代の学校教育では有利に働くことも事実である。しかし、サバン症候群の例もあり、知的障害を持つ人物がずば抜けた才能を表すこともあり、本来すべての人が天才的な能力を備えて生まれてくるというのは、あながちまるっきりの出鱈目でもなさそうである。
この様に本来の人間が持っている能力には、他者より秀でた優秀な才能が個々人に備わっており、幾多の天才たちが示してきた様々な個性的なその能力で、社会に大いなる貢献を成し遂げている。そして我々のような凡夫であっても、なにがしかの天賦の才を持って生まれてきており、その能力で社会貢献する事が求められているのではないだろうか。しかし、間違った教育や自己限定によって、その能力を開花させる事のない環境が作られる事で、才能が眠らされてしまっており、誠に勿体ない話しではないか。
真理というのは非常に単純であると述べたが、その真理の一つである自然治癒力と云う途方もない「神の力」を最大限 発揮するには、その力の法則から逸脱した生き方によって、人々は病を得て塗炭の苦しみに見舞われるだろう。神の力とはいえ、己の欲望や自己中心的な行動によって、その力は失われていくのである。それこそが自然の摂理であり、私はそれを「生存の原理」と表現している。その原理原則から逸脱するものは、相応の報いを受けなければならない宿命を背負って生きていくしかない。本来の自分で在りたければ、自然回帰が求められている。
真理に通じる回廊
人類が 類人猿から分岐し、人間としての進化を始めたのは 500 から700万年前と言われている。様々な原人が登場し交雑しながら、現代人の我々は 凡そ20万年の歴史を持つ種族であり、20万年の人類の知恵の蓄積は相当な科学的根拠を持って認められるべきである。ともすれば非科学的という言葉で切り捨てられるが、長い歴史の中で不要なものは切り捨てられ、語り継がれて生き残ってきた智慧は、それこそ普遍性を持つという科学的根拠に基づいて、人類の優れた英知として受け継がれ、今に残っているのであろう。 それを 非科学的と断罪するのはそれこそ人間の傲慢のなせる技でしかない。
三百年前の江戸時代において、 貝原益軒が残した養生訓のような優れた教えもあり、益軒は 八十五歳まで健康で長生きし「養生訓」は 八十三歳の時に記された書物と言われている。益軒の例に限らず、今程 科学技術が発達していなかった時代の中にあって、現代の最先端化学で証明されている様な事柄が、数千年以前から語られていると云う事実は驚くばかりだが、人の意識の奥底には、真理に繋がる回廊が存在しているという仮説が正しければ、何ら不思議な事ではなく、縄文時代が、単なる狩猟採取の原始的な生活の場ではなく、三内丸山遺跡の発見で解明されつつある高度な縄文文明の痕跡も又、驚くには当たらないのではないだろうか。
科学技術の発達は現在が最高到達点で、一万年前とはくらぶべきもないが、人の能力が今より劣っていたとは考えにくい。いや寧ろ、遥かに優れた智慧を有していたように感じている。それは真理に通じる回廊が現代人より太く、瞬時に真理と繋がったのではないだろうか。我々は科学技術の発達で便利さを享受して生きているが、それによってその回廊が閉じてしまっている。
そして、直観力や閃きによるものや、厳しい難行苦行の果てに、意識の拡大が起こり大宇宙とつながるような体験によって、いわゆる悟りを開くのであるが、それは特別な人間にだけ与えられている能力ではなく、本来は 全ての人に与えられている、超人的な能力によるものでは無いだろうか。技術の発達で便利になりすぎてしまった現代、その様な未知の能力に頼ることなく、何不自由のない生活が享受できている事は喜ばしいが、それに甘んじ、限界突破する努力を怠っている様な気がしてならない。
これから先、益々と発展する技術は、人間の仕事を奪い、覚醒した人々以外は 路頭に迷う未来が待っているのであろうか。それとも、生産活動は機械がこなし、人類は僅かな時間、例えば週に数時間働くだけで良く、それによって与えられた余暇は人間にしかできない活動に、精を出すような社会が到来するのであれば、それは 天国に近い理想的な社会なのであろうが、それに応じた人格の向上が求められ、それなくば退廃が支配する混沌とした世の中の始まる可能性も否定できない。
何れにせよこの物質世界では、命は有限であり、その限られた人生で何事かを為さねばならない課題を与えられ、此の世に生を受けている事は確かであり、その実現には 相応の努力が求められているのである。その普段のたゆまぬ努力こそが、意識を高め、高次元に通じる回廊に辿り着く唯一の道ではないだろうか。
今、私達が生きている物質世界である「此の世」には、様々な制約があり、窮屈な生き方を強いられているかもしれないが、であればこそ私達個人も、その総和である人類も進歩できるのではないのだろうか。困難を克服し、新たな境地を拓くことは、生きる意味の追求であり、生き甲斐に通じる、己自身を救う道でもある。
物質世界である「此の世」には無限なものなど何一つも無く、太陽系の寿命でさえ限られており、時間さえも有限である。そして、あっという間に寿命を迎える生物の中でも、人間の寿命は比較的長寿であり、大事業を成し遂げるには充分ではないかもしれないが、挑戦し跳ね返されても、何度でも再挑戦できるほどの寿命は与えられている。今生で叶えられなくとも、生まれ変わり、新たな肉体を得て心機一転、出直すことも可能な仕組みが、生命の中に埋め込まれている様である。
その仕組みは、宇宙は物質世界と非物質世界が織り成す二重構造で成り立っており、最も単純化して説明するならば、宇宙に浮かぶ太陽系や銀河の数は計り知れない程の数で存在している。その天体は宇宙空間にポカリと浮かんでいるが、その空間にこそ宇宙のエネルギーが充満しており、そこに非物質世界が存在する。
鉱石で最も硬いと言われるダイヤモンドでさえ、原子レベルではスカスカの空間に浮かんでいる。スポンジのように隙間だらけであることは、誰もが承知している事である。つまるところ、顕在意識では、物質世界である「此の世」こそが実在する現実であるかのように錯覚するが、そこは 有限が支配し「何れ無に帰する定め」の無常の世界である。
しかし、此の世は無常であっても、循環する生命の原則があり、生命 の本質は肉体ではなく意識体である。即ち「魂」にこそ生命の核が宿り永遠の命が与えられている。神の分身である魂は、肉体を失うと神と一体となり、神が成長する為の一助となるらしい。そして新たな人生を得て此の世に生まれ、人格を磨くのだと言う。宇宙の本質は、物質である天体ではなく、非物質世界に充満するエネルギーであり、より精妙なエネルギー体が我らの意識体である。そしてより精妙な究極のエネルギー体が、宇宙の森羅万象を司る「神」という事になる。
生まれ変わりの真実
退行催眠によって、過去に遡り記憶を掘り起こす試みがある。それによって明らかになったことは、忘れ去った過去の出来事や、トラウマを抱えているその原因などを探る事ができ、心的外傷の解消ができるとされている。それは胎内記憶までさかのぼり、母親の胎内で胎児は 両親の会話や出来事をつぶさに観察していて記憶にとどめているという。しゃべれるようになった幼児に、お腹の中の様子を聞くと答えてくれるそうだ。しばらくするとその記憶は忘れるようだが、2~3歳位までなら記憶していると云うのだから実に興味深い。
更に不思議なことに、それ以前の別の人生の記憶まで存在するのだという。つまり、一つの人生が終わると、新たな人生の始まりが訪れるというのだ。前世の記憶を持つ人々の追跡調査で明らかになったことは、生まれ変わりは実在する事が証明されているのである。
幾たびも生まれ変わり、自ら与えた人生の課題をやり遂げ、次の人生の目標を決めて更なる高次元を目指すよう仕組まれているようだ。一代で大事業を成し遂げた歴史上の偉人や現存する偉大な人物は、そうして生まれ変わりを繰り返しながら能力を開花させてきた人物だという。であれば、今は凡夫であっても、今生で努力を怠らなければ、何れかは名を残せる人物に辿り着く事も夢物語ではない。
不完全な人間が創り上げる社会の構造は、庶民にとって欠陥不備だらけの、欠陥住宅にも似た構造をしているが、生まれ変わりの事実が示す通り、宇宙の構造は不変の真理に貫かれており、神の分身であると言われる人類が、向上心を失う事なく精進する事が出来れば、いつの日にか平和で理想的な丸い社会が到来する可能性がある事を信じたい。それは圧倒的多数の庶民が目覚める事に掛かっているのではないだろうか。
なぜならば、現存する社会の頂点にいる力の存在が、庶民の為にその力を揮う事などあり得ないからだ。その証明に、庶民に百円や二百円の募金を募って食料援助や、医療援助を促すが、圧倒的な資金や影響力を持つ個人や団体が僅かな寄付金でお茶を濁し、その力で庶民の生活を底上げする様な気配は微塵も感じないのである。であればこそ、我等庶民が、寄らば大樹の陰に潜み何の行動も起こさなければ、既得権益の大波に飲まれるばかりである。
転生する事実が示すものは、現在がどれ程に不遇であったとしても、精一杯の努力は今生で報われなくとも、来世で花開くという希望でもある。今、与えられている人生を、自分の為だけでなく、社会に貢献し人の役に立つ生き方が求められているとするならば、まずは身近な人の為に生きる覚悟が試されているのではないだろうか。
自己中心的な生き方が横行する社会は 生き辛さの象徴であるが、和を貴ぶ心根を持つ日本こそ、そして何の利権も持たない、絶対多数の庶民にこそ、民族の魂に刻み込まれているであろう「報徳の精神」を発揮する機会に恵まれているのではなかろうか。それは何ら難しい事ではなく、仕事でも私生活でも、人の為に何ができるかと考えるだけでも、殺伐とした世の中を変える事に繋がると云ものである。
社会であろうと、家庭であろうと個人のそういう想いが周りを変え、社会を変えて、国家を変える原動力になるのではないか。自己中心的な庶民の想いの総和は、国家運営にも表れており、国民の利益など蔑ろにした政策が打ち出され、得をするのは既得権益を持つ団体や個人ばかりである。それは、元を糺せば権利ばかりを主張する個人主義の横行が齎したものにほかならず、国だけを責めても詮無き事であり、それは本末転倒である可能性も否定できない。今こそ我ら庶民こそが襟を正し「報徳の精神」に立ち返らねばならない。
意識改革 が【健康への架け橋】
病気で苦しんでいる、多くの人々は医療に頼り切り、その患者からの信頼感を逆手に取り、患者の利益などお構いなしの商業主義に走った治療が行われて、最後はベットの上で塗炭の苦しみを味わいながら、無残にもご臨終の息を引き取る事になる。
成すべき事が他にあるにも関わらず、患者側も医療側も不勉強なるが故に、あだや尊い命の無駄遣いを、日々反省する事も無く繰り返している事をどう感じているのであろうか。齢老いて亡くなるならば、寿命と諦めもつこうが、幼子や前途ある若者が食の間違いによって、救えるであろう「尊い命」を無残に絶たれることは、親御さんにとっては、生涯悔やみ続けねばならないであろう日々を思うと、あまりにも忍びない。
遺伝子に刻み込まれた、命の本質を理解して貰うだけの行為が、果てしなく広い海の中に落とした一粒のダイヤモンドを探すにも等しい、難解さを以って迫りくる 虚しさにはもう慣れてしまったが、それでも飽きることなく、真実を伝えていかねばという想いは尽きることが無い。
そして健康のその先にあるものは、自己実現であり、承認欲求の探求なのだと思う。真の健康体を身につければ、何歳であってもその様な欲求は誰しもが持つものであろう。だとすれば遺伝子の望む、人間本来のあるべき生き方を全うして、大往生を遂げたいものである。
悪魔が忍び寄る心の隙
しかし、最近になって、自己実現とは良きことの様に思っていたのであるが、それは悪魔に支配される前触れだという考え方が存在する事を知って、衝撃を受けてしまっている。成りたい理想の自分になって、結果として社会貢献に寄与できれば何の問題も無いように思えるが、人間の弱き本性がそれを許さず、社会貢献は後回しになって、利権獲得や自己保身に汲々として、最後は身を亡ぼすというのである。
自己実現とは白人の考えた、欲望を満たすための思考法であり、社会貢献に資する哲学などは微塵もないという。そうではなく、日本古来より受け継がれてきた、家族や隣人、地域社会に代表される、公の為に何を為すべきかという「報徳の思想」が根底になければならないというのである。自己実現という言葉に踊らされて、背景に潜む自己中心的な、悪魔の思想を見抜けていなかったようである。
.確かに、思い返してみれば、世界最古の国家が育み受け継がれてきた「報徳の思想」によって、我が国は護られ、世界大戦に巻き込まれて敗北した今も尚、敗戦国の悲哀は有るものの、連綿と続く国家は確かに息づいている事を忘れてはならない。そして真の独立を成し遂げねば、この国を護る事に奔走してきた無垢の人々に申し訳が立たない。
生存の原理【番外編の意図】
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