命を戴く【循環システム】
命を戴く【循環システム】
そもそも人間とは、自然界の循環から切り離されて存在できる生き物ではない。山が水を育み、水が土を潤し、土が植物を育て、その植物を糧として生命が循環する。この連なりの中にこそ、生存の原理は存在しているのであろう。しかし現代社会は、その循環を効率という名のもとに分断し、人間を自然から遊離した存在へと変えてしまったのである。
つまり現代人の多くは、「生きる」とは何かを考える以前に、「便利に消費する」事を人生の中心に据える様になった。食とは本来、生命を維持するための神聖な営みであり、自然との対話であったはずである。しかし現在では、それは単なる快楽や娯楽、あるいは時間短縮の対象へと変貌してしまったのである。
人びとは、何故これほどまでに体調不良に苦しみながら、その原因を理解できないのであろうか。それは病気という現象のみを見つめ、その背景に存在する「生活環境」と「食文化」の崩壊を見失っているからではないだろうか。つまり結果だけを処理し、原因を直視しない社会構造そのものが、人類の感性を鈍らせているのである。
.例えば、慢性的な疲労、不眠、倦怠感、精神的不安定、あるいは血管障害や代謝異常に至るまで、多くの不調は突如として発生する訳ではない。それらは長年に亘り積み重ねられた生活習慣の結果として、静かに形成されるのである。しかし人びとは、その小さな異変を見逃し、「まだ大丈夫」という感覚のまま日常を繰り返してしまう。
そこには、現代医療への過剰な依存も存在しているのであろう。本来、医療とは生命を支える最後の砦であり、人間が自然の原理から逸脱した際に補助的に機能するものである。しかし現在では、「病気になったら治せば良い」という思想が社会全体を覆い、人びとの生活態度そのものを変質させてしまったのである。
薬によって数値を抑え込む事はできるかもしれない。しかし、それだけで生命活動の本質的な改善がなされる訳ではない。人間の身体とは、単なる部品の集合ではなく、全体が連動する一つの循環システムだからである。つまり局所のみを見つめる視点では、生存の原理そのものを理解する事は難しい。それは全体で一つの生命体を形成しているからである。
更に深刻なのは「食」に対する認識の崩壊である。戦後日本は、飽食の時代へと突入し、人びとは豊かさを享受する事に成功した。しかし、その豊かさの裏側では、自然から遠ざかった人工的な食品が急速に普及し、人間本来の食性は静かに、そして激しく失われていったのである。
かつて日本人は、季節と共に生きていた。旬を知り、土地に根差した食材を活かし、自然との調和の中で食を営んでいたのである。そこには単なる栄養補給ではなく、「生命をいただく」という深い感謝が存在していた。しかし現代では、季節感は消失し、加工と保存によって均質化された食が日常となってしまった。
便利さは、人間を幸福にするとは限らない。むしろ過度な便利さは、人間から感性を奪うのである。電子機器に囲まれ、人工光の中で生活し、短時間で加工された食品を摂取し続ける生活環境は、自然界のリズムから著しく逸脱している。それにも関わらず、多くの人びとは、それを「普通」であると認識しているのである。
しかし、本当に普通なのであろうか。若年層から慢性病が増え、精神疾患が拡大し、認知症が社会問題となり、老後において自立できない人びとが増え続ける現実は、果たして健全な文明の姿と言えるのであろうか。そこには文明の進歩とは裏腹に、人間としての基礎能力が低下している現実が存在している。
特に、癌、脳卒中、心臓病、認知症など、人間の尊厳を奪う病が蔓延している現代社会は、「生存の原理」を見失った結果であると言わざるを得ない。それは単なる老化ではなく、長年に亘る環境負荷と生活習慣の蓄積によって引き起こされる文明病であり、生命を失った食材を食す「食源病」と云わざるを得ない。
人間の肉体は、本来極めて高度な自己修復能力を備えている。傷は塞がり、細胞は再生し、命を受け渡しながら生命が循環する時、生命は最大限の能力を発揮できるシステムを有している。しかし、その能力も無限ではない。不自然な環境、不自然な食、不自然な精神状態が長期間続けば、生体システムは徐々に破綻していく事は避けられない。
つまり病気とは、肉体から貴方への「悲痛なる叫び」に外ならない。にも関わらず現代人は、その警鐘を「不快な症状」としてのみ捉え、根本原因を省みようとせず、そしてその症状を薬剤で抑え込む、対症療法を繰り返しながら、さらに生活を乱していく。この悪循環こそが、慢性病社会を形成している本質であり、生物本来の「真理に基ずく生理」を全く理解せず、誤解の上に構築された生理学の基礎を学んでいるからに外ならない。西洋医学の基礎理論も又然りである。
また、戦後教育の影響も見逃す事はできない。敗戦後の日本では、「何のために生きるのか」という哲学的思索よりも、「如何に効率良く社会に適応するか」が重視される様になった。そこでは精神性より経済性が優先され、人間の価値は生産能力によって測られる傾向が強まっていったのである。
その結果、人びとは他者との比較の中で生きる様になり、自らの内面を見つめる時間を失ってしまった。本来、人間は自然との調和の中で、自分自身の存在意義を見出す生き物である。しかし現代社会は、競争と消費によって、人間を常に外側へと向かわせ続けている。
個人主義そのものが悪なのではない。しかし共同体意識を失った個人主義は、孤立を生み、利己性を増幅させる。そして利己主義の拡大は、「自分さえ良ければ良い」という思想へと繋がり、社会全体の調和を崩壊させていくのである。
健全なる社会とは何であろうか。それは単に経済的に豊かな社会ではない。人びとが健やかに働き、老後においても矍鑠として生き、子ども達へ知恵を継承しながら、尊敬されて死を迎える社会こそ、本来の成熟した文明の姿ではないだろうか。
かつて人類は、「老い」を単なる衰弱としては捉えていなかった。経験を積み重ねた存在として、共同体を導く智慧の象徴であったのである。しかし現代では、高齢者は医療費や介護費という経済的負担として語られる場面が増えている。この価値観の転倒こそ、精神文化の衰退を象徴しているのであろう。
食文化とは、単なる料理技術ではない。それは民族の思想であり、生命観であり、生き方そのものなのである。どの様な食を選び、どの様な環境で食し、どの様な感謝を抱くのか。その積み重ねが、人間の精神性を形成していくのである。
つまり「正しい食」とは単なる栄養学の延長ではなく、生命に適した環境を整え、生体システムの循環を乱さず、人間本来の能力を引き出す行為そのものが、本質的な「食」の意味する所であり、食が文化文明を創造する根本なのである。そして その思想を失った時 人類は豊かさの中で静かに衰退していく。まさに現在の日本を象徴していると感じるのは私だけではあるまい。
自然界には無駄が存在しない。森林は循環し、川は浄化され、土壌は再生しながら生命を支えている。そこには奪い合いではなく、共生という原理が働いているのである。しかし現代文明は、短期的利益を優先し、自然環境を消費対象として扱い続けてきた。
その結果として、土壌は痩せ、水は汚染され、食材そのものの質が低下している。つまり人間は、自らの生命を支える基盤を、自ら破壊しているのである。それにも関わらず、人びとは表面的な便利さに満足し、その深刻さに気づこうとしない。
真理とは、決して難解なものではなく、人間は自然の一部であり、自然の原理から逸脱すれば不調を生む。それだけの事である。しかし文明が高度化するほど、人びとは複雑な理論に囚われ、本質を見失ってしまうのである。
だからこそ今 必要なのは、豊かな感性を回復する事に尽きる。何が生命を活かし、何が生命を蝕むのかを、自ら考え抜く力である。他者に答えを委ねるのではなく、自分自身の肉体と向き合い、自然の声に耳を澄ませる感覚が求められているのである。
人間は、本来もっと強い存在である。過度な薬剤や人工的環境に依存しなくとも、適切な食と生活環境が整えば、生体能力は本来の力を発揮し始める。しかしその為には、短期的快楽を優先する生活態度を見直し、「生きる」という行為そのものを問い直さねばならない。
つまり、私が唱える「真の健康」とは、不調などの一切の不具合を感じる事のない、当然ながらその延長線上には慢性病のひと欠けらさえない、俗に言う「ピンコロ」の実現を意味する。最期まで人間らしく、自立し、自らの意思で人生を全うできる状態こそ、本質的な健康なのである。そしてその基盤となるのが、食文化であり、精神文化であり、生存の原理なのである。
文明は今、大きな分岐点に立たされている。便利さを追求するだけの社会を続けるのか。それとも生命の原理へ立ち返り、人間本来の在り方を再構築するのか。その選択は、国家でも企業でもなく、一人ひとりの生活態度に委ねられているのである。
食を変えるとは、単なる習慣変更ではない。それは価値観を変え、生き方を変え、未来を変える行為なのである。何を身体に取り込み、どの様な思想を育み、どの様な社会を子ども達へ残すのか。その問いに向き合う時、人類は再び本来の道を歩み始めるのではないだろうか。
命の循環システムとは、生命が絶えることなく、脈々と受け継がれながら存在し続ける宇宙の真理そのものであり、人間の内側に眠る、生存の原理への感性そのものなのである。それは現代文明によって希薄化され、現代人の多くは失いつつある感性であるが、宇宙が存続する限り誰しもの肉体に、そして記憶の奥底に、静かに残されている。
だからこそ、人びとは今一度、問い直さねばならないのであろう。「自分は、何によって生かされているのか」と。その問いを失った時、人間は便利さの中で生命を摩耗させる。しかしその問いを取り戻した時、人類は再び、自然と共に生きる智慧を思い出すのである。
真に豊かな未来とは、高層ビルや経済指標によって測られるものではない。人びとが健やかに働き、子ども達が生命を尊び、老いた者が智慧を語りながら穏やかに人生を閉じる社会こそ、本来目指すべき文明の姿なのでは無いだろうか。
その意味において、「食」を見直す事は単なる健康法ではない。それは人類が本来あるべき人間性を取り戻すための生命活動であり、豊かな精神文化を再構築する第一歩なのでは無いだろうか。そしてその小さな気づきの積み重ねこそが、やがて社会全体を静かに変えていく力となるのである。

