人間の「食性」に適った食行動によって得られる、健康効果を解説。この「食性」から逸脱した食習慣は、生活習慣病の温床であり、QOLの悪化を招くことを身体で理解する事が重要である。

「命」の輝きを忘れない!「健康」は宝です!! 「病」を癒し、病院と縁を切る為のガイドブック

【生命】の拠りどころ

【生命】の拠りどころ

 産業革命以来、自然界に人間の創り出した不自然な化学物質が溢れる様になってきた。日本においては、明治以降の大改革によって、欧米列強に伍して近代化を成し遂げこんにちに至っている。とりわけ、昭和四十年代以降の経済成長によって社会問題化した環境汚染は凄まじく「モクモク村のケンちゃん」の英語教材にも扱われるほどで、多くの健康被害を齎したのである。

 特に敗戦後の日本では、様々な制約を受け、独特の精神文化を生む教育を変えられて、現在の日本の病巣を生みだしている原因でもある。健全な精神の欠落は、物事を深く追及する思考力を奪い、何が真実であるかを見極める判断力に乏しく、刹那的な生き方を重視し、自らを省みることを由としない生活が不幸を招き寄せる事になる。

 人間に与えられている「生命」を最大限に生かしきるには、溢れる情報や利便性に流されることなく、自らの心身を省みて、何が生命を養い、何が生命を蝕むのかを見極めなければならない。自然の摂理に反した生活は、やがて精神を乱し、肉体を衰えさせ、人を本来の生から遠ざけてゆくのである。故に、人が真に立ち返るべきものとは、自然と調和した食と精神であり、それこそが【生命】の拠りどころとなるのである。

忘却の構造――「食」が失われた文明の代償

 宇宙に存在するすべての生命体は、環境との絶え間ない応答によってその存在を維持している。星が重力の均衡の中に輝くように、川が水源から海へと流れる原理を逸脱しないように、生命もまた自然の摂理という見えない秩序の中に組み込まれている。

 しかし人間だけが、その秩序から意図的に離脱しようとしてきた。それが文明の誇りであると信じて疑わなかった時代が、実は人類の健康を根底から蝕む時代であったとすれば、私達は生命の根本である食を、自然なるエネルギーに満ち溢れた食へ変換し、自然回帰する姿勢が求められているのである。

 文明病が蔓延する問題の核心は「食」にある。食とは単なる栄養補給の行為ではなく、人間が自然と交わす最も根源的な契約である。土が育み、水が潤し、陽光が熟成させた生命を体内に取り込む行為は、本来、自然の循環そのものへの参加を意味していた。

 しかしながら現代の食卓には、その契約の痕跡がほとんど残っていない。加工され、精製され、化学的に安定化された食物が並ぶとき、人間は自然との契約を一方的に破棄していることに気づかないまま、日々それを口にしているのである。

 この無自覚こそが、現代における慢性病が蔓延する根本原因と言わねばならない。ガン、脳卒中、心臓病、認知症――これらはいずれも突然に降り掛かる不運ではなく、長年にわたる「原理からの逸脱」が積み重なった帰結である。つまりそれらは、人間が食の本質を見失った文明の必然的な産物であり、無知という最も静かな暴力の結果に他ならない。

教育という名の忘却装置

 人間が本来持っている感性というものは、実に精妙な認識装置である。何を食べるべきか、どのように生きるべきか、生命をどう扱うべきかという問いに対して、かつての人間は肉体という精密な計器を通じて答えを導き出していた。旬のものを食べ、土地の恵みに従い、季節の変化とともに食の内容を変えてきた先人たちの知恵は、単なる経験則ではなく、自然の原理に即した生存の哲学なのである。

 ところが戦後の日本において、この哲学は静かに、しかし確実に解体されるに至った。占領期の教育改革は、表向きには民主主義の普及を謳いながら、実質的には「生きる意味を問う思想」を教育の場から排除する機能を持たせたのである。個人の自由と権利を強調する一方で、共同体の中で人間が果たすべき役割や、自然の秩序の中での人間の位置付けを問う視点は、行き過ぎた自由や個人主義を尊重するあまり、軽んじられてしまっている。

 その結果として生まれたのが、問いを持たない世代である。なぜ食べるのか、何のために生きるのか、老いとはどういう意味を持つのかという根本的な問いを持たずに育った人びとは、与えられた情報を無批判に受け入れ、消費という行為の中に生きがいを見出すようになる。しかしそれは、人間本来の生存の原理からの逸脱であり、その逸脱の代償が、中年以降に噴出する慢性疾患という形で現れてくると言わざるを得ない。

個人主義という幻想の檻

 現代社会が称揚する個人主義は、一見すると人間の自由と尊厳を守るための思想であるように見える。しかしその実態をよく見れば、それは人間を共同体から切り離し、自然の循環からも孤立させる力学として機能していることに気づかされる。個人が選択の主体である以上、何を食べようと個人の自由であるという論理は、食の本質を問う社会的責任を希薄化させ、食品産業が提供するものをそのまま受け入れる消費者を大量に生み出してきた。

 これは食に限った問題ではない。人間の生活全般において、個人の嗜好と選択の自由が最優先される社会では、長期的な健康よりも短期的な快楽が選ばれ、共同体の持続よりも個人の享楽が重んじられるという傾向が定着する。そしてその結果は、数十年後に病院の待合室という形で可視化される。老いて、病んで、介護を必要とし、社会の負荷として晩年を過ごすという現実は、決して個人の不運ではなく、文明全体の思想的な敗北の表れであるといえよう。

 自然の世界に目を向けてみれば、孤立した個体が長く生き延びることは稀である。群れの知恵、世代をまたいで受け継がれる経験、環境との協調――これらが生命体の持続を支える原理であり、人間社会もまたその原理の外側に存在することはできない。個人主義という思想が見落としてきたのは、まさにこの生存の原理であった。

食文化の本質とは何か

 食文化という言葉を聞くとき、多くの人びとは料理の様式や食事の礼儀作法、あるいは地域ごとの郷土料理を思い浮かべるであろう。しかしそれらは食文化の外形に過ぎない。食文化の本質とは、人間が自然との関係をどのように認識し、どのように心身を通し表現し、その関係を生きるかという、生命観そのものの表れである。

 日本の伝統的な食文化には、この生命観が色濃く刻み込まれていた。一汁一菜、一汁三菜という形式は、単なる栄養バランスの指針ではなく、自然の恵みに感謝し、肉体を清浄に保ち、精神の安定を図るという総合的な哲学の体現である。また「医食同源」という概念が示すように、食と医療はかつて截然と分かれたものではなく、日常の食の選択そのものが健康を守る行為であるという認識が、生活の中に自然に組み込まれていたのである。

 しかしこの認識は、高度経済成長の波の中で急速に失われてしまい、効率と利便性を優先する工業化された食品システムが普及するにつれ、食は生命を維持するための原理的な行為から、娯楽と消費の一形態へと変質してしまって、その変質の過程で失われたのは、単なる栄養学的知識ではなく、食を通じて自然とつながるという根源的な感覚であった。

肉体という最も正直なるシステム

 人間の肉体は、数百万年の進化が積み重ねた極めて精巧なシステムである。外界から取り込んだものを識別し、必要なものを吸収し、不要なものを排除するという能力は、どのような人工システムよりも高度な適応力を持っている。しかしそのシステムには、設計上の前提条件がある。それは、自然の環境の中で生成された食物を取り込むことを前提として設計されているという事実である。

 現代の食環境は、この前提条件を根底から崩してしまった。超加工食品と呼ばれる食品群は、工業 的なプロセスを経て、本来の食材が持っていた自然の構造を解体し、再構成したものである。砂糖・塩・脂肪の組み合わせが精密に計算され、食べる事がやめられない習慣性を植え付けるよう設計されたそれらの食品は、身体のシステムに対して誤った信号を送り続ける。その誤れる信号の蓄積が、インスリン抵抗性や炎症、血管の損傷という形で現れ、やがて生活習慣病として顕在化するのである。

 つまり体調不良の原因を理解できないまま老いてゆく人びとの多くは、身体のシステムが何十年もかけて発してきたシグナルを、感じ取る感性を持てなかった人びとであるともいえよう。そのシグナルとは、倦怠感であり、慢性的な眠気であり、消化の不快感であり、気分の浮き沈みである。しかしこれらは「現代人として当然の疲労」として処理され、体が発する本来の警告として受け取られることはなかった。

老いの意味を取り戻す

 かつての社会において、老人は知恵の体現者であった。長年の経験と思索によって磨かれた判断力を持ち、共同体の中で若い世代の指針となる存在として敬われた。その老人が敬われた背景には、老いてなお矍鑠として生命の輝きを保っていたという事実がある。つまり尊敬される老人とは、老いることによって初めて到達できる深みを持った人間であり、それは心身ともに健全であってこそ実現するものである。

 しかし現代において、老いは多くの場合、病が蓄積した結果の老醜として表現される。六十代から七十代にかけて次々と現れる慢性疾患は、晩年を医療機関への依存の中に閉じ込め、かつて持っていた知恵や経験の輝きを身体的な苦痛の中に埋没させてしまう。その結果、老人は社会のお荷物という眼差しで見られるようになり、老いることへの恐怖が若い世代の中に広まっていく。これは単なる個人の悲劇ではなく、文明が生み出した思想的な荒廃の象徴であるといわなければならない。

 老いを美しく全うするためには、肉体という基盤が健全でなければならない。そしてその健全性は、生涯にわたる食の原理への忠実さによって守られる。老人が尊敬され、惜しまれながら死を迎えられる社会とは、食の哲学が生活の中に生きている社会に他ならない。それはユートピアではなく、かつて人類が当然のこととして実現していた現実であり、われわれが取り戻すべき原理がそこにある。

覚醒の条件――感性を取り戻すということ

 では、何をもってして人間は原理への回帰を果たすことができるのか。それは知識の習得でも、医学的な情報の収集でもない。まず必要なのは、感性の復活である。感性とは、五感を通じて世界を精密に受け取る能力であり、自然の変化に身体が同調する繊細さであり、食べたものが身体にどのような影響を与えているかを直感的に把握する内なる知覚である。

 この感性は失われたのではなく、眠っているのである。刺激の強い食品、絶え間なく流れる情報、人工的な光と音に囲まれた生活の中で、人間の感性は徐々に鈍化してきた。しかし自然に近い食に戻り、体の発する声に耳を傾ける習慣を取り戻すとき、その感性は再び目覚めてくる。そしてその覚醒は、食だけに止どまらず、生き方全体への問い直しへと連なっていくのである。

 真理を見極める感性の醸成とは、難解な哲学書を読むことでも、複雑な栄養学を習得することでもない。それは日々の食という行為の中で、自然との対話を再開することから始まる小さく、しかし根本的な変革である。その変革を成し遂げた個人が増えることによって、社会の在り方そのものが変わっていくのではないだろうか。

健全な社会の原理

 健全な社会とは何か。それは犯罪が少なく、経済的に豊かで、技術的に高度な社会のことを指すのではない。健全な社会とは、そこに生きる人びとが身体的に満ちており、精神的に落ち着いており、老いてなお生の充実を感じながら、共同体の中で役割を果たし続けられる社会である。そしてその基盤となるのは、食の哲学が世代を超えて受け継がれ、生きることの意味が問われ続ける文化的土壌に他ならない。

 慢性病が蔓延する社会は、その意味において健全ではない。医療費の増大や介護負担の増加という経済的な問題を超えて、それは人間の尊厳が組織的に失われていく社会の病理を示している。ガンや認知症によって晩年を苦痛の中に過ごすことは、個人の不幸であると同時に、社会がその構成員に食の真理を伝えることを怠ってきた結果でもある。その意味において、生活習慣病の蔓延は社会全体が問われるべき問題であり、個人の自己責任として処理されるべき事柄ではないのである。

 社会を健全に保つための哲学は複雑ではない。自然の摂理に従い、季節の恵みを感謝して受け取り、身体を自然の原理に沿って整えるという、人類が長い時間をかけて培ってきた知恵を、現代の環境の中で実践することである。その実践を個人が始め、家庭に広め、地域の文化として根付かせていく時、社会に巣食う病巣は静かに、しかし確実に癒されていくのではないだろうか。

失われた契約の再締結

 人間と自然の間には、言葉を持たない契約がある。それは「自然の原理に従って生きるならば、自然はその生命を支える」という、生命と環境の間の根本的な約束である。農耕文明の誕生以来、人間はこの契約の中に生きてきた。土を耕し、種を撒き、収穫を感謝する行為は、単なる農業技術の実践ではなく、自然との契約を毎年新たに更新する儀式なのである。

 現代人は.この契約を忘れてしまっている。あるいはより正確に言えば、忘れさせられたといってよい。産業化された食品システムは、人間と自然の間に幾重もの仲介者を挟み込み、食物がどこからきて、いかなる原理によって人間の身体を支えているかを不可視化してしまった。スーパーマーケットの棚に並ぶパッケージ食品は、その製造過程も原材料の出自も、購入者の目には映らない。この不可視化こそが、食の本質を忘却させる最も効果的なシステムである。

 契約を再締結するためには、まず忘却の構造に気づくことが必要である。自分が何を食べているのかを問い、その食物がいかなる経路を経て自分の前に届いたかを考え、それが身体に対していかなる影響を与えているかを感じ取るという、至極単純な問いかけを日常の中に取り戻すことが、その第一歩となる。この問いかけは、慣れ親しんだ便利な生活を根本から問い直す不快感を伴うかもしれない。しかしその不快感の先にこそ、本来の健康と充実した老いへの道が開けているのである。

【生命の拠りどころ】を問い直す

 生命の拠り所とは何か。多くの人びとは、愛する人の存在、仕事の意味、信仰や思想の中にそれを見出そうとする。しかし生命という現象そのものを支えている最も根本的な拠り所は、食という行為を通じた自然との繋がりにある。心身が健全であってこそ、思想は深まり、愛は育まれ、信仰は輝きを持つ。その基盤が蝕まれているとき、どれほど崇高な精神的支柱を持っていたとしても、命は本来の輝きを発することができない。

 われわれが今問い直すべきことは、何を食べるかという技術的な問いではなく、なぜ食べるのかという哲学的な問いである。食は生命を維持するための機械的な行為ではなく、人間が自然の一部として存在することを毎日確認する原初的な儀式である。その儀式に込められた意味を取り戻すとき、食は単なる消費行動から、命の拠り所を確認する営みへと変容する。

 そして個人のこの覚醒が積み重なるとき、社会の在り方は変わっていく。慢性病が蔓延し、老人が尊敬されず、若者が老いることを恐れるという現代の病理は、解決不能な構造的問題ではなく、一人ひとりの気づきによって変え得る文化的現象である。ガン、脳卒中、心臓病、認知症という名の「無知の帰結」は、知の回復によって防ぐことができる。その知とは、複雑な医学知識ではなく、自然の原理に従って生きるという、人類が長い歴史の中で培ってきた本源 的な知恵に他ならない。

おわりに――静かな革命の始まり

 革命と聞くと、暴力的に権力を奪取する意味合いが強いと思うが、戦後に行われた、我が国への食の革命は、静かに戦後の食糧難を背景に、慈善事業の如く 推進されていった。敗戦したが故に行われたという意味では、暴力を伴うものであるが、これ程までにある意図を持って民族全体の食の大改変が行われた事は、世界史上類例を見ないと言われている。その結果、慢性病が国全体に蔓延し、国の活力は低下の一途であり、その行く末に暗雲が漂っている状態にある。

 それは教育の改革とセットで強行され、見事に結実した感がある。命の明暗を分ける食を操作し、肉食と小麦文化を定着させ、その結果が齎す弊害を覆い隠す様に、思考力を奪う教育改革によって国民を沈黙させる手法は、あっぱれという他は無い。日本のこんにちの低迷は、敗戦の頸木によって計画的に企図されたものである。

 この状態から脱するには、一筋縄では いかないと思うが、そんな歴史的背景を理解した上で、現代食がどれ程に危険であるかの認識を新たにすることで、日本の伝統的食文化への見直しが早急に求められているのである。肉食もパン食も、食卓の必需品ではあるが、加工食品の氾濫と共に、食文化の変化によって国民の健康状態は、一億総半病人と云われる程に悪化している。

 その改善を果たすには、一人ひとりが意識改革を遂げて、自分自身の健康を維持管理できる様にならなければならない。健康は医者に託すものでは無く、生命の仕組み、体の仕組みを理解する事で、命の何たるかが、食の実践とその体験と共に実感できるようになる。

 最も根本的な変革は、食卓から静かに始めるのが効率的であろう。何を選び、何を口にし、何に感謝するかという、日々繰り返される小さな選択の集積が、一人の人間の健康を決定し、一つの家庭の文化を醸成し、やがて社会全体の在り方を変えていく力を持っている。

 人間が自然の摂理に従って生きるとき、肉体は本来の輝きを取り戻す。そして体が輝くとき、精神は清廉となり、老いは深みを持った成熟した人格を有する事となろう。その人が惜しまれながら死を迎えるとき、残された人びとは老いることへの恐怖ではなく、老いることへの敬意を胸に抱くようになるのではないか。それが健全な社会の姿であり、食の哲学が生きた文化の中に息づいている社会の姿に他ならない。

 生命の拠りどころを問うことは、現代文明への静かな異議申し立てである。しかしそれは否定のための問いではなく、取り戻すための問いである。自然との契約を再び結び、身体という最も正直なるシステムの声に耳を傾け、食を通じて生命の原理と対話することを選ぶとき、人間は本来あるべき存在としての尊厳を取り戻す。

 その選択は、今日の食卓から始まる。




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